フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

聖霊が導く

あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。(ヨハネ15章8節)口語訳

上記はイエスが弟子たちに語られたことばです。

実を結ぶためにどんな賜物が必要かを、ペテロの第二の手紙1章の一部をご紹介致します。

あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、5節

知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、6節

信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。 7節

これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。8節

盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ち込んでしまいます。実を結ぶために何が求められているかは、聖霊がその答えをペテロを通して与えてくださいました。

信仰に「徳」をの5節の「徳」はギリシャ語から「美徳」「賞賛」の両方の意味が込められているようです。「美しくてほめたたえられるもの」という意味でしょう。

6節の「信心」は神を信じる、神に祈ることで、「敬虔」となっている聖書もあります。「敬虔」は神を敬う言葉や態度をさしています。

上記に書かれている8つの事柄は、自分の力で身に付けようとせず、神の助けを祈り求めましょう。

そうすれば、実を結ぶために必要なものすべては、父なる神が豊かに与えてくださいます。

この福音によって救われる

コリント15章2節から8節

もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。2節

わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、

わたしたちの罪のために死んだこと、 3節

そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、4節

ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。 5節

そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。 6節

そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、7節

そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。8節(口語訳)

上記は福音の3要素が書かれており、下記にまとめると

1キリストが、わたしたちの罪のために死んだこと

2そして葬られたこと

3三日目によみがえったこと

となります。

これら3つの事柄を自分のこととして信じることで救われます。

自分が罪人であるという自覚が必要です。キリストは義人のために死んだのではないからです。

死んで墓に葬られ、三日目に父なる神がキリストを復活させました。

このキリストの復活に対する信仰が私たちが生まれながらにもっていた「罪」からの解放と「神の怒り」からの解放を意味します。

そして、復活によって「信仰をもつすべての者」に「永遠の命」がもたらされました。

これが、キリストの弟子たちの信仰です。

神は信仰をもつ者を必ずお救いになります。救いは神にかかっていますが、人間の側の求めに対して、もし、たたき続け、求め続けるなら

神は必ず救いに必要な信仰、愛、聖霊、その他聖書に書かれているもろもろの霊的な賜物を与えてくださるでしょう。

 

 

 

 

信仰とはなにか?

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
ヘブル11章1節 新改訳

信仰とは、望んでいる事がらを確信し、見えない事実を確認することです。
ヘブル11章1節 新共同訳

信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
ヘブル11章1節 口語訳

さて、信とは、望まれている事柄の実体化であり、未だ見ていない事柄を確認することである。
ヘブル11章1節 新和

信仰は望むことの実体、見えぬものの証拠です。
ヘブル11章1節 前田訳

以上が各聖書からの抜粋です。人間が何かを望んでいてそれを信じて疑わないこと、見えないものに対してはその事実を確信または確認することが信仰の定義です。よく読んで意味が理解できるよう、父なる神に祈ってみてください。なぜなら、主イエスを信じて頼ることが「救い」を意味しているからです。最初は少しの時間でもかまいませんので是非、聖書全体をご自分で読んで理解できるよう神に祈ること、それを習慣にすることをお勧めいたします。

神の愛を感じる

人が邪悪なをことを行ってしまうのは、罪と死をもたらす「肉の法則のため」です。一方、「霊の法則」があります。キリスト・イエスに結ばれている状態がそれです。救いは神にかかっており、人が邪悪に陥った時に、その人を救い出すものは「神の愛」だけです。自分の力では自分を救うことが出来ないからです。「肉の法則」に支配されている限りその人の上には「神の怒り」があります。聖書で教えられている事柄に従いたいと思ったとしても、自分の力では従え得ないことをまず知る必要があります。従うためには祈りが必要です。祈るためには信仰がなければなりません。神の御心を行うときに「祈りと信仰」が必要です。イエスの真の弟子たちは愛を持っています。現代の弟子たちも一世紀当時の弟子たちも同じです。彼らは「神の愛」を感じていました。聖霊の働きによります。この「神の愛」によってかれらは救われました。私たちも同様に救われるために「神の愛」を感じることが必要です。この「神の愛」は一度体験すれば、常に感じる状態になります。自分が神に愛されていることが分かるようになります。この体験が「霊の法則」に入っている証拠です。聖なる状態を保ち、主イエス・キリストが天から来臨する日を待ち望みましょう。

聖書の中でのきつい言葉は神の愛の表れ

聖書を読んでいると、少しきつい言葉に出会うことがあります。その時は、わたしたちへの「神の愛」が示されていると考えるようにしています。神の言葉に従って、もし悔い改めるならば、神はお許しになるに違いないからです。神の国が完成するまでの残された時間については「救われていく人たちのための特別な時間」だと思っています。
その救われていく人たちの数が満ち、時が満ちるまでの時間はちょうど、ノアの日の洪水前の時間と出来事に似ています。また、ソドムとゴモラの町からロトが救出された時の時間と出来事に似ています。彼らの救出のあと、突然の滅びが邪悪な人々の上にに臨みました。
聖書には今後も同様のことが起こると述べられています。そのため、すべての人たちに対し、神は「悔い改めること」「目を覚ましていて、これらのことを逃れて人の子の前に立てるよう絶えず祈っていること」を望まれています。
悔い改めとは、悪い行い、つまり闇に属する業を捨て、「神が求める良い業」をせよということです。
良い業とは、イエス・キリストをわたしたちの救い主とし受け入れ信じること。
「救いは、わたしたちの行いによらず、ただ、主イエスへの信仰による。」
わたしたちは、自分で自分を救うことは出来ず、救いは神からの賜物です。それは誰も誇ることがないためです。しかし、聖書の知識がなければ、何をどう信じ、理解したらよいのかが分かりません。
一世紀当時は神から使わされたイスラエル人のための十二使徒をはじめ、七十二人使徒、一般の信者そして異邦人のために使わされたパウロなどがおりました。彼らを神から使わされたイエスがお選びになりました。神による強力な業が行われたな時代です。一世紀当時はイエスについて知らない人はいなかったと言えます。
キリストと一緒に十字架に付けられた二人の強盗のうちの一人は悔い改めて、イエスに信仰を告白して救われました。その人は当時、イエスについてどんな方かを知っていた。だからイエスに向かって、「あなたがご自分の王国に入るときに私のことを思い出して下さい。」と言えた。
「悔い改める」こととは何か、「信じる」こととは何か、そして「永遠の命」とは何か、などを理解するために、聖書を読んで神とイエス・キリストについて知る必要があリます。
お二方への愛と信仰を持ち、兄弟愛、隣人愛を実践し、すべての人たちのために平和を求めていきましょう。
時間を買い取って、聖書を読み、祈りをし、神の言葉に従って生きていきましょう。
神の言葉は真理であり、霊であり、命です。
真理はわたしたちを罪から解放し、聖くします。この点、肉は少しも役に立ちません。聖霊の助けと導きにより、わたしたちの体を神に受け入れられる神の器として用いていただけますように。アーメン。

まじめな話

隠された真実

失われた羊を見つけ出せれば

それでいいのかも知れない。

人類は悪魔を父としているから,

だから滅びる。

しかし、

悔い改めて、

救われる人たちも確かにいる。

これが、隠された真実。