フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

神は祈りを聞いてくださる

「敵を愛し、あなた方を憎むものによくせよ。呪うものを祝福し、なやますもののために祈れ。略 そうすれば褒美は多かろう。そしていと高き方の子となろう。」(ルカ6章27節から35節)前田訳
わたしたちのほとんどは、この人間社会で生きて来たなかで、だれもが、わたしたちを悩ます者に出会ったり、憎む者に出会ったり、わたしたちを呪う者に出会ったことがあるのではないかと思います。いわゆる「敵」と思える人たちにです。もしその人が、身近にいる隣人であり、話の出来るような相手であれば、自分の意見をしっかり相手に伝え、上記の聖書の助言に従って行動し、祈ってみると良いでしょう。その際、自分で復讐をしてはいけません。「悪に負けず、善によって悪に勝ちなさい。」(ローマ12章21節)前田訳 と聖書はすすめています。この方法が神が人間に求められている悪に対する最善の対処法です。もし、必要ならば、神ご自身が聖書の中でこういわれています。「主はいわれる、仕返しはわがもの、わたしが報いる」(ローマ12章19節)前田訳 つまり復讐は神が行われるということです。あくまでも、わたしたち人間は「善で対応していく」ことが自分のためであり、また相手のためでもあります。結局それが人間関係の一番の解決策という訳です。一方、詩篇94篇には、復讐を願う祈りの詩篇もあり、こちらは身近にいる隣人ではなく、話の出来るような相手ではない「敵」に対する祈りになります。ただし、やはり、直接人間が復讐するのではなく、神が復讐することを願っています。神の正義が行われることを願う詩編となります。個人的な恨みのためではありません。個人的に呪うことは自分にとって災いとなります。やはり善を行い、なやますもののために祈ることが最善です。「そうすれば褒美は多かろう。そしていと高き方の子となろう。」と聖書に書いてあるからです。

永遠の命とは

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17章3節) 新共同訳
聖書を読んだことの無い方であれば、最初に、ご自分で聖書を読まれてみることをおすすめします。唯一のまことの神であられる方とイエス・キリストを知るために。
新約聖書旧約聖書は、それぞれ新約が27冊、旧約が39冊あります。それらをあわせて66冊にまとめたものが、聖書全巻となっています。
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(テモテⅡ3章16節)新共同訳
毎日読めれば、一番よいのですが、仕事で疲れていたり、緒事情で読めない日もあると思います。少しの時間を割いて読み始めてみるのはいかがでしょうか。
まず、聖書に触れてみてください。どこから読まれても良いと思います。興味のあるところから始め、少しずつ聖書の知識を広げていってみてください。聖書に次のように書いてあるからです。
「なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただくからだ。」
箴言8章35節) 新改訳

三位一体とは?

キリスト教世界には、父と子と聖霊に関する、三位一体の教義があり、それについての論争が昔から現在に至るまである。西暦325年のニケーア宗教会議でアタナシウス派アリウス派の教義を退けてから、次第に三位一体の哲学が固まっていった。その三位一体だがいろいろな考え方があって、それぞれについては、牧師も神父も明確に説明できないのだ。勿論、聖書にはこの言葉はなく、ただ、父と子と聖霊に関して三位一体の概念が聖書の中にあるというために聖書学者が推論して編み出した考え方だ。異端を退けるための苦しい戦いの歴史があり、そうした背景の中でそれは生まれたとのこと。神についての三位一体論は人間の理解を超えているため、結局は信じるか信じないかということのようだ。しかし信じるか否かで正統と異端に分けられてしまう。カトリックプロテスタントその他の教会で三位一体を信じるグループと三位一体を否定する異端と呼ばれている教会グループがある。一世紀当時のイエスの弟子である十二使徒たちは黙示録のなかで、十二部族を裁く王座につくことになっている。彼らは三位一体など知らなかった。これが答えだ。分からないことを敢えて分かろうとしてバプテスマ信仰告白に三位一体を無理やり信じる必要はない。霊そのものが証ししている。神さまから直接教わり、主イエスのもとへ行く。天に行くか地にいくかどちらへ行くかは分からずとも、イエスと共に歩んでいく。これが、信仰である。カトリックであれプロテスタントであれ、教会に行って説教を聞いていればよいというものではない。十二使徒の最後のひとりであるヨハネが亡くなってから、教会は背教した。カトリックカトリックから分かれたプロテスタントも。そして現在に至る。今、地上にある教会はすべて、大いなるバビロンのように思えてならない。

命を与えるのは何か? 信仰とは?  救いとは? 聖書を調べてみました

命を与えるのは「霊」である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(ヨハネ6章63節)新共同訳

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル11章1節)新改訳

わたしを見いだす者は命を見いだし/主に喜び迎えていただくことができる。 (箴言8章35節)新共同訳

永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(ヨハネ17章3節)新改訳

ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない。(使徒4章12節)新共同訳

創世記1章1節から2章2節までについて  考えてみました  

創世記には、初めに神は天と地を創造された。から始まり地球の最初の状態が、地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。と書かれている。地は形がなく、何もなかった。と書いている聖書もある。その後モーセが書いたといわれる、神による、地の創造の過程が淡々と書かれ、2章2節で創造を休まれたことが分かる。神ご自身が造られたものをご覧になってそれらを良しと見られたと書いている。私の勝手な想像だが、神様は何もない暗闇の中にある地に対して、何もないところに光を、続いて何もないところに愛を、最後に何もないところに喜びをと、ご自分の気持ちを込めて、さまざまな環境や生き物を造っていったのではないかと思った。聖書に書かかれていないので、あくまでも私の想像であるが。3節に神が「光あれ」と仰せられて光ができた。と書いてあり、これが第一日目のことで、この光が太陽なのか、霊的な光なのか、人間には分からない。二つの大きな光る物と星を造られたのが弟四日目になっているからだ。記述どおり順番に創造されたならば、地球が一番古い惑星となる。なぜなら、太陽と月と星を造られたのが、第四日目になっているからだ。私、個人の考えとしては、現代科学と一致してなくても、全くかまわない。地球と宇宙は人間のために、創造されたと信じている。宇宙の星々を神が人間の及びもつかない方法で配置なさったと考えられるからだ。ところで、聖書で「光」といえば、「命」を意味しており、「闇」は「死」を意味している。創世記1章2節目以降は、闇の地球つまり、死の惑星を命の惑星に創造していく過程の記述ではないかと考えられる。第一日目の光が、命を意味していると考える人は、ネットで調べてみてもいなかった。第一日目の光についての考え方は、聖書に書かれていないため、あくまでも私の想像に過ぎない。話は変わるが、人間の心は環境や学習、健康状態で変化する。なんとなく心がすっきりしなかったり、落ち込んでいるときなどは、こんな風に考えてみてはいかかでしょうか。何もないところに光を、(ヤコブ1章17節)何もないところに愛を、(ヨハネ第一4章8節)何もないところに喜びを(ヨハネ16章24節)と。そしてもし、信仰によって心が充実してきたら、こう言ってみては。こうして父なる神は御子イエス・キリストを通して、私のポッカリと空いた心の穴を塞ぎ、「光」と「愛」と「喜び」とで満たしてくださったと。

イエスの弟子たちへの質問

マタイ16章(口語訳)
13.イエスがピリポ・カイザイリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねられて言われた「人々は人の子を誰と言っているか」。
ここで、イエスはご自分のことを「人の子」と言っています。次いで弟子たちがその質問に対し、
14.彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エイリヤと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。
と答えました。イエスは再度弟子たちに質問します。
15.そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
次にある弟子がその質問に答えます。
16.シモン・ペテロが答えて言った。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
17.すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。以下略
エスはご自分についてペテロが言った「あなたこそ、生ける神の子キリストです」という答えが、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。と証されました。
それはイエスが「神の子キリスト」であって「父なる唯一まことの神」ではないことをはっきりさせました。
新改訳聖書ヨハネ20章28節でトマスがイエスのことを「私の主。私の神。」と言ったときにイエスはそれを否定されませんでした。イエスに対して弟子たちがひれ伏したり、(マタイ28.17)してもそうすることをやめさせませんでした。しかし黙示録19.10でヨハネが天使に拝もうとしてひれ伏したときは、天使はやめるようにヨハネに言いました。ただ、ダニエル書2.46ではネブカドネツァルがダニエルを拝したことが書かれています。この時は、ダニエルはこのことを拒否しませんでした。このケースではネブカドネツァルはダニエルをとおしてダニエルの神に対して伏し拝んだことが分かります。
父なる神と主イエスは同じ方ではなくても、一体です。父なる神の中にイエスがおり、イエスの中に父なる神がおられるからです。学者たちのようにギリシャ語から調べたりしなくても、素直に先入観なしに聖書を読んでみることです。私自身は聖書を比較検討するために、新共同訳、口語訳、新改訳、バルバロ訳、フランシスコ会訳、KJV訳、NASB訳、等を使います。ネットでギリシャ語、ヘブライ語をたまに英語訳と見比べることもありますが、参考にしているだけです。イエスが神であるかどうかですが、御使いではないので、「神の子」であるため「神の子」は「神」だと思います。「神の使いたちはみな、彼を伏し拝め」ヘブライ1章6節(フランシスコ会訳)と父なる神が天使たちに仰せになったからです。

マタイによる福音書1章1節から17節にある系図について 確かめてみました

マタイによる福音書1章17節に
「こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である」と書いてあります。(新共同訳)
十四代十四代十四代、14という数字が3つ並んでいます。文章をよく読むと最初のグループの初めの人物はアブラハムからダビデまでで以下のようになります。
アブラハム、イサク、ヤコブ、ユダ、ペレツ、ヘツロン、アラム、アミナダブ、ナフション、サルモン、ボアズ、オベド、エッサイ、ダビデ」 人物を数えると14人います。
次のグループは初めの人物はダビデから数えてバビロンの移住までとありますので、
ダビデ、ソロモン、レハブアム、アビヤ、アサ、ヨシャファト、ヨラム、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ、マナセ、アモス、ヨシヤ」 人物を数えると14人います。
最後のグループはバビロンへ移されてからキリストまでと書いてありますので、(マタイ1章12節)
「エコンヤ、シャルティエル、ゼルバベル、アビウド、エリアキム、アゾル、サドク、アキム、エリウド、エレアザル、マタン、ヤコブ、ヨセフ、イエス」 人物を数えると14人います。
つまり間違いなく、十四代十四代十四代でした。
何故、今回こんな細かいことを書いたかというと、ネット上で気になることを言っている人がいたからです。
こんなことを言っていました。
「ヴァチカンが認めている聖書の間違いとは、ヴァチカン放送(短波で放送)で聞いたのですが、マタイによる福音書の1章1節から始まる イエス・キリストの系図に間違いがあると言っておりました。」というもので、以下のように数えておりました。

アブラハム(1)イサク(2)ヤコブ(3)ユダ(4) ペレツ(5)ヘツロン(6)アラム(7)アミナダブ(8)ナフション(9)サルモン(10)ボアズ(11)オベド(12)エッサイ(13)ダビデ(14)」ソロモン(15)レハブアム(16)アビヤ(17)アサ(18)ヨシャファト(19)ヨラム(20)ウジヤ(21)ヨタム(22)アハズ(23)ヒゼキヤ(24)マナセ(25)アモス(26)ヨシヤ(27)エコンヤ(28)シャルティエル(29)ゼルバベル(30)アビウド(31)エリアキム(32)アゾル(33)サドク(34)アキム(35)エリウド(36)エリアザル(37)マタン(38)ヤコブ(39)ヨセフ(40)イエス・キリスト(41)です。
41人しかいません。よってバビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。のは間違いとなります。

しかし、文章をよく読むと真ん中の、第二グループは、ダビデからバビロンへの移住まで十四代と書いてあるので、この「ダビデ」を入れない数え方をしたための数え間違いであることが分かります。
ヴァチカンが認めているヴァチカン放送(短波で放送)を私個人は聞いていないので、そんな内容の放送が実際にあったかどうかの真偽は分かりませんが、正確に数えることで、間違いなく、十四代十四代十四代であることを確かめてみました。